Kyllikki Salmenhaara(キィリッキ・サルメンハーラ)は、卓越した轆轤の技術を芸術に磨き上げたフィンランドで最も優れた陶芸家であると共に生涯にわたり陶芸を追求した研究者・教育者。1938年から1943年まで中央美術工芸学校でElsa Elenius(エルサ・エレニウス)のもと陶芸を専攻。学内のコンテストで最優秀賞を受賞するなど在学中よりその実力は抜きに出ていました。卒業後に3年間Kauklahti Glassworks(カウクラティ)でガラスデザイナー、1946年に研修生としてデンマークのSAXBO(サクスボ)で釉薬化学者であるNathalie Krebs(ナタリー・クレブス)の薫陶を受ける。その後Sakari Vapaavuori(サカリ・ヴァアヴオリ)のスタジオを経て1947年にARABIAへ。当初は、Olga Osol(オルガ・オソル)のアシスタントとして応用美術部門で働いていましたが、1950年に美術部門に移籍し1961年まで在籍。特に1956年のアメリカ滞在後の彼女の作品は、素地の質感を活かした釉薬、力強い造形でミラノトリエンナーレでグランプリを獲得するなど高い評価を得ました。作業中に粘土に混入していた薄い刃により指を負傷しARABIAを去ることとなった後は、1961年から台湾、1963年から亡くなる1981年まで芸術デザイン学校、ヘルシンキ芸術デザイン大学で教育者、研究者として活躍。1974年には、材料や轆轤の技術、土や釉薬の調合、焼成などそれまでの自身の経験と研究の成果を『Keramiikka』と題した書籍にまとめて発表しました。ミラノトリエンナーレでは、1951年に銀メダル、1954年に名誉賞、1957年にグランプリ、1960年に金メダルと参加した全てで受賞。